最低賃金1,177円時代の「値付け」— 賃上げ原資は交渉ではなく設計でつくる


2026年度の最低賃金は全国加重平均1,177円。まず「自社の発効日」を押さえる

厚生労働省は2026年9月3日、全都道府県で地域別最低賃金の改定額が答申されたと公表しました。改定額の全国加重平均は1,177円で、前年度の1,121円から56円(約5.0%)の引上げです。厚労省は「全国加重平均額56円の引上げは、昭和53年度に目安制度が始まって以降で2番目の高さ」としています。引上げ額は都道府県別に54円〜65円と幅があり、最高額は東京都の1,280円、最低額は宮崎県の1,085円、最高額に対する最低額の比率は84.8%(前年度83.4%)で12年連続の改善となりました(出典:厚生労働省「令和8年度最低賃金額答申」2026年9月3日公表)。

実務上、最初に確認すべきは金額そのものよりも発効日です。答申された改定額は異議申出の手続を経て労働局長が決定し、2026年10月1日から12月2日までの間に順次発効する予定とされています(同上)。同じ改定年度でも、10月1日に上がる事業場と12月まで猶予がある事業場が混在します。複数県に拠点や現場を持つ企業ほど、「どの事業場が、いつから、いくらになるのか」を一覧にしておく必要があります。

見落としやすいのが月給者です。最低賃金は時間額で定められるため、月給制の従業員についても所定労働時間で割り戻した時間単価が新しい地域別最低賃金を上回っているかを点検しなければなりません。パート・アルバイトの時給表だけを直して安心してしまうと、若手正社員や固定残業代を含む賃金設計のところで逆転が起きます。

価格転嫁は「進んだ会社」と「進まない会社」に割れている

交渉は9割超、転嫁はほぼ横ばい

賃上げの原資をどこから出すか。政府が用意している受け皿が、毎年9月と3月の「価格交渉促進月間」です。中小企業庁の適正取引支援サイトによれば、2026年3月の月間フォローアップ調査結果では「価格交渉が行われた」と回答した中小企業は前回から約1ポイント増加して9割を超過し、そのうち7割超が労務費についても価格交渉を実施しています。一方で「価格転嫁の状況はほぼ横ばいであり、引き続き、転嫁できない企業と二極分離の状態が継続しています」と明記されています(出典:中小企業庁 適正取引支援サイト「価格交渉促進月間」)。

つまり、交渉のテーブルに着けるかどうかは、もはや差ではありません。差がついているのは着いたテーブルで何を出せるかです。

取引階層が深いほど転嫁率は下がる

同サイトは、サプライチェーンの段階別に「1次請けの企業の価格転嫁率は5割超に対し、4次請け以上の企業は4割程度」とし、階層が深くなるほど転嫁率が低くなる傾向が続いていると指摘しています(同上)。自社が2次・3次以下に位置する場合、元請の善意を待つ発想では構造的に届きません。

制度面は動いています。2026年1月1日に施行された中小受託取引適正化法では、対象取引において「代金に関する協議に応じないことや、協議において必要な説明又は情報の提供をしないことによる、一方的な代金決定の禁止」、および「手形払いの禁止」が盛り込まれました。あわせて「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(内閣官房・公正取引委員会)も2026年1月1日に改定されています(出典:中小企業庁「2026年9月『価格交渉促進月間』の実施について(周知依頼)」令和8年8月27日付)。協議に応じない一方的な値決めは、交渉下手の問題ではなく法の問題になったということです。

人件費は、すでに倒産の主要因になっている

数字は厳しい現実を示しています。帝国データバンクの集計では、2026年上半期(1〜6月)の「物価高倒産」は556件で、前年同期の449件から23.8%・107件増加し、2018年の集計開始以降で半期として過去最多を更新しました。要因別(重複含む)では「原材料」が255件と最多ですが、注目すべきは**「人件費」要因が145件**で前年同期比29.5%増、「エネルギー」(106件)を上回って過去最多となった点です(出典:帝国データバンク「『物価高倒産』の動向(2026年上半期)」2026年7月7日)。

同社の倒産集計でも、2026年上半期の倒産は5,335件(前年同期比6.6%増)、うち「人手不足倒産」は227件で過去最多、その約77.5%にあたる176件が従業員10人未満の小規模企業でした(出典:帝国データバンク「倒産集計 2026年上半期報」2026年7月8日)。賃上げをしなければ人が採れず、賃上げをしても価格に反映できなければ資金が尽きる。この挟み撃ちが小規模事業者ほど強く効いています。

2026年版中小企業白書(2026年4月24日閣議決定)も、「経営環境の転換期において現状維持は最大のリスク」とし、中小企業の労働分配率は既に8割に近い水準にあると指摘しています。そのうえで、付加価値額を増やしている企業は価格転嫁や成長投資、事業承継・M&Aを積極的に行う傾向があり、経営者の「経営リテラシー」、とりわけ原価管理が価格転嫁率の向上に効くと整理しています(出典:中小企業庁「2026年版中小企業白書・小規模企業白書の概要」2026年4月)。

「値上げ」ではなく「値付け」— 賃上げ原資を設計する5つの手順

私たちが支援の現場で繰り返し見てきたのは、「値上げをお願いしに行く」会社と「値付けを設計し直す」会社の差です。前者は交渉の場で根拠が出せず、結局は数%で妥協します。後者は交渉前に勝負が決まっています。

手順1:原価を「単位あたり」で持ち直す

決算書の売上原価では交渉できません。製品1個あたり、1現場あたり、1時間あたりで、材料費・外注費・直接労務費・経費を積み上げ直します。ここで必要なのは精緻さより更新頻度です。最低賃金改定を、原価の人件費単価を洗い替える定例イベントにしてしまうのが早道です。

手順2:値上げ幅ではなく、必要利益から逆算する

「何%上げられそうか」から入ると、必ず足りません。賃上げ総額、社会保険料の事業主負担増、設備更新と借入金利の上昇分を合計し、確保すべき粗利額を先に置きます。そこから必要な単価を割り出す。順番を逆にするだけで、交渉の説明が「お願い」から「計算」に変わります。

手順3:全品一律をやめ、商品・顧客別に配分する

一律5%は、通る相手には安すぎ、通らない相手には交渉決裂を招きます。商品・サービス別の粗利率と、顧客別の取引額・支払条件・手離れの良さを並べ、上げる先/据え置く先/縮小する先を分けます。実務では、取引の2〜3割が粗利の大半を稼ぎ、下位の数%が赤字という分布がよく現れます。

手順4:交渉材料を「指針」と「数字」で揃える

労務費の転嫁を申し出る際は、公表資料(最低賃金の改定額と発効日、労務費指針)と自社の単位原価の変化をセットで提示します。発注側にとっても、社内稟議を通すための客観資料が必要だからです。加えて、協議に応じてもらえない場合には「取引かけこみ寺」や「価格転嫁サポート窓口」といった公的相談窓口があります。

手順5:価格で取れない分は、事業構造で取りにいく

すべてを価格で回収できるわけではありません。既存事業の値付けを整えたうえで、粗利率の高い周辺サービス(保守・点検・サブスク化・内製化支援など)を新しい収益の柱に育てる。白書が「現状維持は最大のリスク」と言うのは、この意味においてです。

中小企業向け:10月までにできるチェックリスト

  • 事業場ごとに、2026年度の地域別最低賃金額と発効予定日を一覧化したか
  • パート・アルバイトだけでなく、月給者の時間単価を割り戻して点検したか
  • 賃金改定に伴う年間の人件費増(社会保険料の事業主負担を含む)を金額で把握したか
  • 主要な商品・サービス別に、単位あたり原価を最新の人件費単価で更新したか
  • 顧客別の粗利額・粗利率を並べ、上げる先/据え置く先を仕分けたか
  • 価格交渉に使う根拠資料(公表データ+自社の原価変化)を1枚にまとめたか
  • 主要取引先に対し、9月の価格交渉促進月間を口実に協議の場を申し入れたか
  • 価格で回収しきれない分を埋める、粗利率の高い新サービスの候補を挙げたか

8項目のうち4つ以上に「いいえ」が付くようであれば、今年の改定は利益の圧縮としてそのまま通過します。

まとめ:現状維持が最大のリスクという前提に立つ

2026年度の最低賃金改定は、全国加重平均1,177円・+56円という、制度開始以来2番目の引上げ幅です。10月から12月にかけて順次発効するこの数か月は、「上がった分をどう吸収するか」ではなく、「自社の値付けと事業構造をどう組み替えるか」を決める期間だと考えるべきです。価格交渉に臨む企業は9割を超え、それでも転嫁できる企業とできない企業に割れている。違いを生んでいるのは、交渉の巧拙ではなく、交渉前の設計です。

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